不白流ホームページ
 * 波上宮献茶式並びに
  御家元古稀御祝茶会
  (2013年)
不白流の歴史


不白流は流祖川上不白以来8世にわたり250年の歴史をもつ流派で、その伝統を現在に伝えています。
● 流祖 川上不白
川上不白は享保4年(1719年)紀州藩水野家の家臣川上家の二男として和歌山の新宮にて生まれました。
16歳の時表千家の中興の祖といわれる7世如心斎のもとに入門。22歳の時宗雪の茶号を受けました。
当時は町人文化の台頭で茶道も改革が必要でした。如心斎とその弟裏千家一灯宗室を中心として川上不白も加わり小間から広間への茶道、七事式の制定など現在行なわれている茶道の基盤をつくりました。
31歳の時真台子の伝授を受け、如心斎の命により千家の茶道を広めるために江戸へ赴き、文化4年(1807年)90歳で没するまで如心斎に随身修行して得た茶を武家階級や町人階級に広めました。
● 2世以降の歴史
2世川上宗什は九州久留米藩有馬家の茶道役を勤め深く久留米と縁を結びました。
3世川上宗寿は眉山と号し、父と同じく有馬家の茶頭として9代藩主有馬頼徳公に仕えました。
頼徳公は月船と号し、歴代藩主の中でも最も風流を好み茶の湯のみならず能、歌、書、絵等に親しみ、中でも各地より陶工を集め柳原焼を開きました。
天保3年この開窯に際し宗寿を西下させ茶陶の指導にあたらせました。また宗寿は大徳寺404世鉄舟禅師に参禅し、一指亭の号を受け文化文政期の江戸に於いて第一の茶人と称せられました。
※有馬家御庭焼 柳原焼とは
4世も宗寿を名乗り仙溪と号しました。
丁度幕末にあたり茶道界も変換期にありましたが、関不早A大久保北隠等の茶人を育てました。また藩への稽古はこの頃は江戸の有馬家の上屋敷に出茶(出稽古)していました。
5世は仙溪が一時名乗っていた宗順の名を襲名し蓮心と号しました。
明治維新は茶道界にあっても困難な時でしたが、当時の数奇者等と懸命に伝統を守り、やがて財界人を中心とする明治茶道最盛期の前半をささえた中心的な存在でした。流の大旦那であった馬越恭平や益田克徳、益田鈍翁等を門人に輩出しました。
6世は蓮心の次女素蓮が継ぎましたが関東大震災によって浜町の家が灰に帰し、しばらく家元としての活動が中断されましたが、5世蓮心の孫が東大法卒後、各地の門下より再興を乞われ昭和27年春、菩提寺安立寺にて、
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7世宗順を襲名し、川上家浜町派を表千家不白流と改め高円寺に居を構え有馬家ゆかりの地久留米に九州支部、翌年に四国支部、栃木支部を結成し会員相互の研鑚機関として白和会を創立し、機関誌「ゆきま」を創刊しました。その巻頭言を集めた「しのぶ草」は門人座右の書となっています。
8世は、7世没後昭和41年に宗順を襲名し、現在、流は九州、四国、栃木、福岡、山梨、茨城、沖縄、埼玉の8支部と室蘭、福島、桐生、豊橋、名古屋、大阪、鹿児島の7同友会を有し、各地で茶道の普及につとめています。


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流祖 川上不白
流祖 川上不白
2世 川上宗什
2世 川上宗什
3世 川上宗寿(眉山)
3世 川上宗寿(眉山)
4世 川上宗寿(仙溪)
4世 川上宗寿(仙溪)
5世 川上宗順(蓮心)
5世 川上宗順(蓮心)
6世 川上素蓮
7世 川上宗順
7世 川上宗順(連舟)